注目
町政施行70周年記念誌
1954年11月1日、大野村と熊町村との合併により大熊町は誕生しました。宣伝チームの常世田(トコヨダ)は1959年生まれで65歳を過ぎましたので、この町とほぼ同世代と言っていいかも知れません。
そこで今回は、町政施行70周年を記念して発行された『つなぐ』という冊子を紐解いてみたいと思います。驚くことにこの1冊には波乱万丈の大熊町史が詰まっていました!
冊子のベースになったのは、解体を目前に控えた公民館の倉庫に眠っていた『大熊町公民館報』の束でした。合併からおよそ2年後の昭和31年に創刊された公民館報は、東日本大震災まで発行が続きました。このうち昭和30~50年代の各号に着目し、当時の町民の生活や活動、町の様子や町政の遍歴が時系列でまとめられています。
震災後の大熊町しか知らない移住者にとっては非常に興味深い資料でしょう。また同世代の私は、大熊町史と自分の生き様を並べて見ることで波乱に富んだ「昭和」を懐かしく振り返ることができました。
【昭和30年代】
合併直後、およそ1年半でインフラ整備や公共施設の建設が進められました。それは身の丈以上の投資となり、町財政は大ピンチに陥ります。一方、町に働く場所はなく、若者は中卒・高卒で都会へ集団就職に出るのでした(人口流出)。また冬場は多くの家長が出稼ぎに出ていたといいます。税金を滞納する世帯も少なからずあったようです。
【昭和40~50年代】
原発誘致が決まると関連企業や建設作業員が大熊町に詰めかけるようになります。昭和46年に原発1号機が稼働し始めると町にお金が入るようになり、財政は大幅に改善されます。それに伴い、町内のインフラや公共施設の整備が急速に進められました。さらに昭和49年には『電源三法』が制定され、本法に基く各種交付金も入るようになるのでした。
【昭和60年以降】
大熊町の人口増加は東日本大震災まで続きました。この間、町民1人当たりの支出額は県平均を大きく上回っています。原発1号機の営業運転開始から40年、「原子力の恩恵」は爆発事故により潰えるのでした。
財政難と人口減少~原発誘致と好景気~原発事故と全町避難~復興計画とゼロからのまちづくり…。大熊町の70年間の歩みは、正に「波乱万丈」だったと言えるでしょう。
《外部リンク》
町政施行70周年記念誌 公民館報から読み解く大熊町の歩み 『つなぐ』
https://www.town.okuma.fukushima.jp/uploaded/attachment/9715.pdf
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